岡谷鋼機の歴史
岡谷鋼機の歴史は350年前に、金物商からはじまりました。
創業から興隆の時代
初代總助、笹屋を開業
当社の発祥は、1669年(寛文9年)に溯ります。金物商として、名古屋に「笹屋」という暖簾を掲げて創業し、以来今日まで350年に及ぶ歴史を築いてきました。
主人は、もと美濃加納藩7万石、戸田丹波守光重に仕えていた岡谷總助宗治(44歳)、ときは徳川4代将軍家綱の時代であった。初代岡谷總助宗治(通称惣助)が、寛文9年に両刀を算盤に代えて、はじめて名古屋に店舗を構えたとき(現:本社ビル所在地)、暖簾の紋を「丸に五枚笹」、屋号を「笹屋」としました。
創業当初に取り扱っていた商品は、農具(鋤、鍬、草鎌)、工匠具(釘、錐、小刀、斧、鋸、金槌)、家庭用品(剃刀、鋏、鏡)、刀剣類など、鉄の加工品でした。いつの頃からか、初代宗治の「宗」の文字に、鉄屋として、鉱山や埋蔵地を意味する「やま」を冠し、「やまそう」を社標として使用してきました。
城下町名古屋と鉄砲町
慶長15年(1610)の秋にほぼ完成した名古屋城とともに城下町名古屋は建設された。總助が店を開いた鉄砲町は本町筋にあり、南端に位置していた。鉄砲町の名前の由来は、清州越えの際に数名の鉄砲師が住んだことによる。
4代総七嘉幸の才覚
尾張7代藩主徳川宗春の消費拡大策により名古屋が繁栄し商都として発展していった当時、岡谷家の当主は4代総七嘉幸に移っていた。
総七は笹屋発展の基礎を築いた。折からの全国的な商品流通の拡大に対応し、まず仕入れの拡充を図った。自ら、当時の経済の中心地であった大坂まで出向いて出雲の和鉄、堺・三木の刃物等の仕入れ先を確立すると同時に、京・越前そして尾張領内とその周辺の鍛冶師との絆を強め、鋳物師との仕入ルートの開拓にも努めた。
近代化の潮流のなかで
本社ビルの新築と株式会社への改組
昭和7年(1932)1月、名古屋本社ビルを新築した。
それまでは、寛政6年(1794)以来増築に継ぐ増築で、本宅ほか、16棟の倉庫を有していた。新社屋は、竹中工務店による施工で近代的鉄骨3階建てビルであった。
12年(1937)4月、岡谷商店の合資会社から株式会社への改組を決め、まず資本金50万円で株式会社岡谷商店を設立し、岡谷合資会社を合併し、同年8月1日に資本金1,000万円の株式会社岡谷商店が発足した。
社名岡谷鋼機の由来
昭和18年(1943)10月30日、当社は株式会社岡谷商店から「岡谷鋼機株式会社」に社名を変更した。11月3日付けで、10代惣助は改称の理由を次のように説明している。
此ノ名称ガ当社ノ特色タル業務内容ヲ明カニ表ハシ配給部門ニモ生産ニモ活躍シテ時局下戦力増強ニ協力スル意ヲ表現シタノデアリマス。
盡シ「鋼」ハ鉄鋼金属ヲ代表シ「機」ハ機器金物ヲ代表シテ居リ又「鋼機」ノ響キハ「弘毅」「光輝」ニモ通ジテ経済戦士タル諸君ガ広キ度量ヲ以チ堅忍不抜ノ敢闘精神ヲ以テ奮闘努力スルニ於テハ会社ハ光輝アル発展ヲ遂ゲルモノト思フノデアリマス。
尚「鋼」トイフ字、金偏ニ岡ト書キ当家ト金属トハ離レ難イ因縁ニ結バレ謂ハバ天業トモ申スベキデアリマセウ。
この社名変更の背景には、戦局の推移とともに先の中小商工業者の圧縮・削減にも見られるように、問屋を非生産的中間機関と決めつける風潮や圧力が高まり、自由経済的な表現の商号の問屋はその改称を余儀なくされ、「商店」を「産業」「興業」等に変更するのが流行するという戦時下の特殊事情があった。
経営体質の強化をめざして
新海外拠点づくりを開始
昭和20年代後半、当社の業績は伸びなかったが、将来を見すえて貿易部門の充実を図るために、北米・南米、東南アジア、中近東の取引先拡大および信用調査、市場動向調査等を積極的に行なった。結果、海外拠点づくりが貿易部門拡充の次の重要戦略とし、29年(1954)9月、最初の海外拠点として沖縄に、翌30年(1955)シンガポールに駐在員を派遣し、まずはスクラップ取引業務を開始した。続けて、32年(1957)1月、ニューヨーク駐在員事務所を開設し、当面はアメリカより輸入するスクラップの業務連絡に当ることにした。
そのほか、オーストラリア、ニュージーランド、香港を含め、35年(1960)8月末までに海外事務所を合計6拠点設置した。
米国岡谷鋼機の設立
昭和38年(1963)5月、アメリカとの一層の輸出入取引を強化するため、米国内の各事務所業務を統轄し、人員を増強しつつ現地法人化をめざす米国統轄事務所をニューヨークに設置し、39年(1964)1月、米国岡谷鋼機を設立した。
米国岡谷の設立は、30年代前半から本格化したわが国の技術革新により価格面でも品質的にも国際水準化した鉄鋼各製品、工作機械・工具等の輸出を中心に、従来からのスクラップの輸入を促進して、アメリカ市場を拡大するのが目的であった。
米国中西部市場のさらなる開拓を図るために、40年(1965)7月、シカゴに駐在員事務所を置いた。
21世紀のOKAYAをめざして
岡谷篤一社長の就任と抱負
平成2年(1990)5月24日、第54期定時株主総会後の取締役会において取締役会長に岡谷康治、取締役社長に岡谷篤一が選任された。篤一社長は就任にあたり、以下のように経営課題を示して全員の協力を求めた。
- 伝統と取引先よりの信用ー変わることなく更に充実強化されたのが、当社の伝統即ち各取引先より寄せられた信用であります。この信用にお応えして行くのが、当社に課せられた使命と思います。
- 新しい商社機能の創造ー取引先より求められているのは、新商品の紹介、効率の良い購買方法、そしてコスト低減提案等を折り込んだ、付加価値ある商社機能であると思います。社内の英知を集め付加価値ある商社機能を創造して行きたいと思います。
- 海外部門の再構築ー望まれる国境のない世界経済、また、自由貿易体制の発展により、世界貿易は今後も十分な成長を遂げると予想されますので、国内外の一致協力した体制により、一日も早く海外部門の再構築を計りたいと思います。
- シェアアップと部門別強化ー素材部門では、今後内需拡大にともなう大型プロジェクトを含め、公共投資分野への積極的な対応とともに、業界でのシェアアップを計る必要があると思います。製品部門については、将来更に省力化投資が進むと予想され、設備投資関連の工作機械・システム機械等については、より積極的な対応も必要です。そして個人消費関連需要、川下分野での情報不足も否めない事実です。個人消費需要との係り合いを持つ事により、既存分野をより充実させうるというスタンスで取り組みたいと思います。
- 情報処理基盤の充実ー情報は経営資源の一つとして、その重要性が年々高まっていますが、情報を有効に活用するには、一層の情報処理基盤の充実が急務となっています。一日も早く構築し、情報処理基盤の整備充実により、新しい商社機能も加えられる様期待します。
今迄述べてまいりました事柄は、いずれも当社の総合力の発揮によって実現できるものです。即ち、環境条件・取引先、また、社内に関する情報を、役員・社員問わず共有化し同じ認識の上でともに考え、そして実行してこそ前進があると思います。当社の伝統の中には「和」の精神が引き継がれていますが、歴史の中での弛まぬコミュニケーションが、困難を打ち破って来た事が幾度かあったと思います。
役員・社員の皆様が、意見・感情そして思考を自由闊達に発表し、しかも双方向の対話を続けていただければ、結果として明るくまた、活性化された職場にもなると思いますので、まずコミュニケーションの大切さを心にとめ行動していただきたく思います。
おわりに、岡谷鋼機グループ総員4,900名余が総力をあげて、明日の岡谷を創って行けるよう祈念する次第です。